あれから十年。
時は流れて、平和になって。
オレは正式に熊野別当を任じられて、各地を飛び回っている。
八葉として怨霊を相手にしていた日々は既に遠い。
オレの焦がれた月は、今は世界ではなく、オレの天敵のもとで輝いている。
君が残した痣のような
「ヒノエくん!」
「やあ姫君、半年ぶり」
「ふふ、相変わらずだね〜」
京邸に程近い邸は弁慶の持ち家だ。
軍師を退いたあの男にこれを維持できるほどの資金源があるとはどうにも思えないのだが・・・・
まあ何なりあるのだろう。
あの男なら錬金術の一つくらいもっているはずだ。
またそうでなくては困る。
(・・・・・・いや、そうなら無理にでも攫えた、かな)
ヒノエは僅かに自嘲する。
もう十年も経つのに変わらない、目の前のあざやかな笑顔。
曇れば叔父を許せないのに、曇らないから望美を強引には奪えない。
「ひのえくん!」
「やあ、弥生」
望美の最初の子どもももう6歳。
同時に産まれたのは双子だったから、倍も手がかかった。
その頃はヒノエもしょっちゅう出入りして手伝ったから、今でもこの弥生とは仲がいい。
・・・・いや、ずっと手伝ったことは関係ないかもしれない。
何故なら・・・・
「また来たのか。あんたも暇だね」
「こら!嘉月!ヒノエくんは忙しい中来てくれてるのに」
「遊びにだろ?」
「・・・・・・まあ、今日はほとんどそうだけどね・・・・」
―――同時に産まれたコイツのことも随分面倒を見たはずだが、コイツとの仲は激烈に悪い。
長男の嘉月。
金の髪もあざやかな、弁慶によく似た望美の子ども。
望美の傍に来るとニコニコして、男が望美に寄ると威嚇する。
威嚇どころか、立派に護る。
・・・・・・・・誰の躾か知りたいもんだぜ。
「え?ヒノエくん、遊びに来たの?」
「まあそう。・・・・奥方たちの使いでね」
そうなの?
と、屈託なく望美が微笑む。
ヒノエは少しだけ苦笑した。
(嫉妬してもらえるなんて思っちゃいないけどさ)
逆に、望美の前でそう口に出すだけで気は重いのに。
つい言ってしまうのは、万一にも気づいてくれるかと縋る未練だ。
あるはずのないこと。
気づかれたって、望美が苦しむだけなのに。
「何のお使い?」
「着物をねだられてね。で、お前にもどうかと持ってきたんだ。ほら」
広げたそれはあざやかな赤。
可愛らしく模様も散って、望美に当てるとよく似合った。
「へえ、いい柄だね」
嘉月までが笑う。
・・・・・・目だけはいい、それは認めるが。
「母さんによく似合うよ」
「わ、若すぎない???」
「全然。あつらえたみたいだ。さすが、目だけはいいね、頭領」
―――――コイツのこの小憎たらしさは何なんだ・・・・・!
すっかり手柄を横取りされて、切れかけたヒノエに水を差したのは弁慶だった。
「・・・・・君にそっくりですね、嘉月は」
「あ、おかえりなさい、弁慶さん!」
三十を過ぎても変わらない甘い顔立ち。
酷薄な微笑ではなく、穏やかな微笑を手に入れた叔父は、手押し車に三人の子どもを入れて、ゆっくりと歩み寄った。
「はい、ただいま、望美さん」
「ち、もう帰ってきやがった」
「ご挨拶ですねえ、ヒノエ」
オレといるときの何倍も輝いた笑顔を望美が向ける。
当然のように弁慶はそれを受ける。
―――幸せの構図。
愛し愛されるそれを、そりゃオレだって叶えたかったけど。
「・・・・・・着物、ですか」
「あ、うん、でも・・・・・」
「ふふ、似合いますよ。受け取っておあげなさい、望美さん」
「うー・・・・」
以前なら絶対受け取らせなかっただろうに、弁慶は鷹揚に笑う。
望美は暫く考え込んでいるようだったが、やがて、うん、と頷いた。
「じゃあ、いただくね?ヒノエくん」
「勿論。今度はそれを着てくれると嬉しいね」
「ふふっ、急じゃなかったらそうするよ」
オレは影も感じさせないように微笑んで、すっと立ち上がった。
弁慶も揃った、ここに長居はしたくない。
「えっ、もう帰っちゃうの?」
「ああ、奥方たちが、着物を待ち焦がれてるからね」
「ふふ、ヒノエくんを、でしょう?」
「・・・・・・どうだろうね」
自嘲気味にヒノエは笑った。
まあ中にはそんなのもいるかもしれないが、ほとんど政治で娶った姫たち。
こちらも心をあげられないのに、ヒノエは相手にそれは望まないと決めていた。
というか、別に欲しくない。
心はとっくに、地上の月に盗まれたまま。
「―――ヒノエ、まずは嘘でいい、愛しなさい」
妙に静かな瞳で、弁慶が言った。
「――――あんたがそれを言うのかよ」
「僕しか言えないでしょう?」
「・・・・・・・・・」
かもね、とヒノエは短く呟いた。
だけど、まだそれは受け入れられない。
望美は話の筋も分からずきょとんとしている。
ちょっとだけ見つめると、ヒノエはにこっと笑顔を作り直した。
「そろそろ行くよ。またね、姫君、弥生」
「うん!」
邸を出たのに、弥生がヒノエを追いかけてきた。
何かオレは忘れただろうか?
「どした、弥生?」
抱き上げると、前よりずっと重い。
健やかに育つ、望美と同じ藤色の髪の少女。
「あのね、弥生おっきくなるの、すぐだから!」
「へ?」
「すぐ大きくなって、ひのえくんを幸せにしてあげるから!」
瞠目して、思わず笑ってしまったヒノエを、弥生はプリプリ怒った。
「本気なのに!」
笑って、思わず泣きそうになる。
望美と同じ瞳。
あの頃と同じ色が、オレを癒す。
癒そうとしてくれる。
「・・・・・ああ、待ってるよ」
「本当だからね?!」
「ああ」
半分本気、くらいに受け取って、ヒノエはくすくす笑って弥生をおろした。
「楽しみに待ってるよ」
僅かに浮かんだ自嘲の笑みを、ヒノエはまだ隠すことができない。
それに気づくほど大人でない弥生は元気に頷いた。
「うん!じゃあまたね!」
そう言って去る、小さい背中。
待ってるよ。
その言葉に嘘はないつもりだけど。
それが嘘にしかならないことも、もうヒノエはよく分かっている。
彼女しか、駄目なんだ。
焦がれて憧れた、ヒノエの月。
望美、しか。
(まるで呪いのようだね)
苦しげに微笑みながら、それでもヒノエはこの想いを殺しはしないのだ。
呪いでもいい。
ヒノエは想いを抱き締める。
そっと胸に穿たれたこの痣のような、青春の残り香を。