正式に熊野別当となったヒノエは、かなり多忙だ。
その仕事は望美が簡単に肩代わりできるようなものではなく、一緒にいられる日は本当に少ない。
「すぐに帰るけど、何か困ったことがあったらすぐに周りに言いなよ」
「わかってる。でも大丈夫だよ!何かしててほしい仕事とかない?」
「ふふ、大丈夫だよ。お前は働き者だね」
大切にされている。
守られて、愛されている。
それが嬉しくないわけじゃない。
だけど………。
望美は小さくため息をついた。
帰るところ
望美が熊野に嫁いで、もう三年になる。
「……さま、神子様っ!」
「は、はい!何?」
ヒノエの留守に、ついぼうっとしていた望美は、慌てて現実に立ち返った。
望美を支えてくれている女房がため息をつく。
「もう、聞いておられませんでしたのね?」
「うう、ごめんなさい……何かな?お仕事?」
望美は居ずまいを直して女房に向き直る。
邸の家政を一手に取り仕切ってくれている彼女に、望美は少しずつ仕事を分けてもらうようになっていた。
ちなみに、ヒノエには内緒で。
……何せ、まだほとんど何もできないので。
「いいえ、そうではございませんが……このところ、お寂しそうなので」
無理はないと思う。
新婚当初こそ遠出を控えていたヒノエも、ずっとそうするわけにはいかない。
望美自身の希望もあって、最近は以前と同じように神出鬼没を繰り返していた。
だが、本人も希望したとはいえ、望美は異世界からの来訪者である。
当然、身内(後見となりうる存在はいるにしても)はいない。
心細くて当然だと思うのだが、こればかりは、女房たちにはどうしてやることもできない。
望美もまた、健気に笑う。
「ふふ、そうでもないよー」
「……そうでございますか?」
「うん、大丈夫。みんないてくれるからね」
笑みに無理はなく、それを信じてしまう他ないのだと分かっていても、女房にはやるせない。
嫁いできてからというもの、望美は彼女にとって娘にも似た存在となっているのだ。
女房の憂い顔に、望美は困ったように小首を傾げた。
……ほんの少し、本音を明かすことにする。
「本当に大丈夫だよ。でも、ちょっと不安になることがあるだけなの」
「不安……ですか?」
女房は意外そうな顔をする。
その様子に少しおかしくなりながら、望美も自分でもおかしいと思う。
何を、不安に思う事があるだろう。
こんなにも愛されて、幸せで。
何の不足があるだろう。
ヒノエだけじゃない。
彼女を筆頭とした熊野の人たちにも愛されて、慕ってもらっている。
(……白龍の神子として)
望美は小さく息をついた。
こればかりは考えても仕方ない。
すぐには何ともならない。
守られてばかりで、何の役にも立たないのは「望美」が悪い。
頑張ってはいるけれど。
胸に巣食う、不安がある。
再び、外に出るようになったヒノエ。
大丈夫だと言ったのは自分だけれど、その頻度が高くなるごとに不安は大きくなる。
「何もできないから……私は。愛想をつかされてしまいそうで、怖いの」
「まあ、そんなことはございませんわ」
「でも、ヒノエくんは人気者だからね」
望美は少しばかり冗談めかして笑った。
女房も、若干、得心がいったようで困ったように笑う。
……そこか。
確かに頭領の前科はあまり褒められたものではない。
「それはそうですけれど……」
ヒノエの過去の「お話」は、否が応でも望美の耳に入ってくる。
確かに別当という地位がなくても、ヒノエは魅力的だ。
だが、自分は?
白龍の神子でなければ何もない。
だから、束縛しないことでしか、愛を示すやり方が分からない。
こっそりとまた俯いてしまった望美に、女房は苦笑まじりにため息をついた。
「神子様は、以前のヒノエ様を知りませんものね……」
「え?」
「何でもございませんわ」
女房はにっこりと笑って、それ以上何も言わなかった。
そのまま一礼して、退出してしまう。
用事があるといけないから、望美も彼女を引き留めることはできない。
何だか狐につままれたような心地になって、望美は目をパチパチとした。
☆
午後になって、港を歓声が包みこんだ。
頭領の凱旋である。
「よう、帰ったぜ!」
「おかえりなさいまし、頭領!」
「おかえり、ヒノエさまー!」
老いも若きも、男も女も、みんなひしめくようにして、頭領をはじめとする海の男たちの無事を喜んだ。
ヒノエはそのあたりをぐるりと確認して、望美がいないことを確認すると、抱えていた荷物をそのまま、水軍の一人に押し付けた。
「あと頼んだ」
「はい!お任せください!」
心得た様子の水軍の少年に、ヒノエは小さく笑ってその場を後にした。
「あ、ヒノエ様!お帰りなさいまし」
「望美は?留守中何も変わりないか」
バタバタと出迎えの準備をしていた女房は、予想していたよりも早いヒノエの帰還に目を瞬いた。
口早に問われたことに苦笑する。
真っ先に女の心配。
しかも自然に。
こんなの、以前のヒノエには絶対になかったことだ。
望美には別の意味で聞かせられないが。
「はい、御留守の間も熊野は恙なく……けれど、お耳に入れておきたいことがございます」
「耳に入れておきたいこと?」
かつての歴戦の烏でもあり、無駄口を叩かない女房には珍しい含みのある言葉にヒノエは歩みを止める。
そして、耳打ちされて、……微妙な表情で上を向いた。
「う、痛!……むう、また失敗」
足音を忍ばせてその部屋に近づくと、ヒノエの帰還を知らない望美の独り言が聞こえてきた。
後姿だから明確にそうとはわからないが、望美の膝には大きく布が広げられていた。
(針仕事かな……?)
望美は秘密にしているようだが、ヒノエは望美がこうして仕事をしたがっていることを知っている。
料理は禁止されたようだし、危険なことは絶対にさせるなと言い含めてはいるけれど……
さて、どこまで望美のおねだりに熊野の連中が逆らえるだろう?
ヒノエとしても、ちょっと見ものである。
(でもそんなこと、しなくてもいいのにね)
禁止しすぎれば、それは望美の心を閉じ込めてしまうことにもなると分かっているから―――
なるべく止めずにいるけれど。
そのうち、寂しさが高じて、亰にまで勝手に行くようになったらどうしよう?
……それも、望美らしくはあるけれど。
逢いたいときに逢えなくて、ちょっと困るかもしれない。
―――華奢な背中は、どこか寂しそうに見えた。
それが小さい頃の自分と重なると言ったら、望美は怒るだろうか?
「……つまらないことで悩んでるみたいだね?」
入り口から声をかけると、望美の身体が飛び上がるように跳ねた。
振り返った望美は目を丸くしている。
いくつになっても変わらない表情。
「ひ、ヒノエくんっ?もう帰ってきたの?!」
「ああ、お前に逢いたくて急いで帰ってきたんだ。―――ただいま、望美」
「おかえりなさい!」
望美の笑顔は優しくて花のよう。
こちらも変わってなくて、ヒノエはそれだけで嬉しくなる。
だけど……道具をさっと隠して駆け寄ってきた望美の、赤い眦にヒノエは指を這わせた。
「あ、これは……」
「泣いた痕だね」
さらりと当てられて、望美が口ごもる。
ヒノエはそっと、望美のことを抱き締めた。
「そんなに寂しかった?―――なら、海に出てもいいなんて言わなきゃいいのに」
望美が引き留めるなら、自分はずっと熊野にいただろう。
熊野水軍は手練れ揃い。
しかも、熊野に降り立った女神に誰もベタ惚れときている。
先頭に立ちたくなる自分の性さえ押し殺せば、それはそれほど難しくないのだ。
だが、望美は慌てたように顔を上げた。
「そんな……!それはいいんだよ!そ、そうじゃなくて!」
「オレはここにお前がいてくれるだけで満足だよ。それじゃいけない?」
「い、いけないとかじゃなくて……」
久しぶりのヒノエの腕の中。
大好きなぬくもりに包まれて、引っ込めたはずの涙がまたじわりと浮かんだ。
……この数年で、ヒノエの背は随分伸びた。
もう見上げなければ見つめ合えなくて、顔もずっと精悍になって。
なのに、自分は何ひとつ変わらなくて。
「……ヒノエくんは何も悪くないんだよ。私が、役に立たないのがいけなくて」
ヒノエは小さく笑ったようだった。
振動が優しく伝わる。
「役に、ねえ……役に立ってもらいたくて、お前に求婚したんじゃないんだけど」
「それは……そうかもしれないけど」
でも、役に立ちたいのだ。
お前がいてよかったと言って欲しい。
どう言えば、この物思いは伝わるだろう……?
ふと、ヒノエが望美から離れた。
お互いの間に風が通る。
ヒノエは、望美の髪を掬って微笑んだ。
「――――ね、オレが頭領になった経緯を覚えてる?」
「え?う、うん」
唐突に切り出されて、望美は小さく狼狽えた。
構わずにヒノエは微笑む。
そして、独白めいて呟いた。
「あれもそうだけど、オレの周りはころころ変わるんだ。敵も味方も、情勢も、人の心も……」
「ヒノエ、くん……」
望美を見つめているようで、その瞳は遠かった。
どこか寂しそうに、諦めたように。
望美は咄嗟に手を伸ばしていた。
その手をヒノエが捕まえて、また優しく抱き締められる。
ヒノエは、深呼吸するように微笑んだ。
「お前が好きだよ――――お前の心は変わらない。オレの心も変わらない。それが分かるのが嬉しいんだ」
昔のことを、思う。
人の心も、周りの情勢も、毎日めまぐるしく変わっていった。
取り巻きはたくさんいても、それがずっと変わらないなんて、ヒノエは信じたこともなかった。
現に父や叔父は勝手に戦って負け、新宮の連中は、いつ手のひらを返すか分からない。
敦盛だって、いきなり消えて――――まあこれは後で再会できたからいいとしても。
人の心も情勢も、何ひとつ同じにとどまってくれるものはない。
けれど、ヒノエに今、その頃感じていた痛みはない。
無意識に周りを警戒する癖も必要はなくなった。
熊野を背負う身には変わりがなくても。
望美がいる、から。
「ね、望美――――オレはお前と出逢って、もっと自由になれたんだよ」
「自由……?」
「そう、自由」
どこにいても笑顔が過る。
幸せな気分になれる。
早く傍に帰ろうと、思う事が出来る。
だって望美は、変わらないから。
「望美がいてくれるからだよ。役に立たないなんて、言わないで」
優しい声音に、望美の中に燻っていた不安が嘘のように溶けていく。
望美が小さく身じろぎした。
腕を緩めてやると、ぎゅっと渾身の力でしがみついてくる。
子どものような、全身であらわされた愛情に、ヒノエの顔は自然とほころんだ。
「ずっとオレといて。それでもっと、オレを幸せにしてくれよ、奥方」
「うん…、ずっと傍にいさせてね、ヒノエくん……!」
望美は半泣きの表情のまま、満面に微笑んだ。
……何も解決したわけじゃない。
でも、何もできていないのではないのだということは、幾分、望美の心を気楽にさせた。
だって、ヒノエの言葉は信じられるから。
(少なくともヒノエくんは、「望美」って呼んでくれるもの)
元気になった望美に気を良くして、ヒノエが軽快な微笑みを浮かべる。
「とりあえず今夜、早速極楽を味わわせてもらおうかな。いい、望美?」
「……馬鹿っ!」
さっきの影はどこへやら。
すっかりいつもの調子に戻ってしまったヒノエを、望美はポカリと殴る。
ヒノエが頭を押さえて、二人して笑った。
そのうちに、向こうの方から望美とヒノエを呼ぶ声が響いた。
「いこうか、奥さん」
「うん!」
二人で手に手を取って、立ち上がる。
望美は不意に抱き締められた。
「――――ただいま」
「おかえりなさい、ヒノエくん!」
仕切り直しのように囁かれ、望美も、今度こそ満面の笑顔でヒノエに抱きついた。
優しい恋に不安は解けていく。
再度呼ぶ声がかかるまで、二人はじっと、そのままでいた。