この恋がどうしてこんなにも特別なのか分からない。
分からないまま、オレは今もお前に恋をし続けている。







苦くて甘いお茶








今年の熊野の夏はちょっと違う。

「フフフ〜ン♪」

鼻歌まじりに、ヒノエは定宿の渡殿を歩いた。
目当ては望美。
白龍の神子。
ちょうど彼女が泊る部屋の前で、ヒノエはいけ好かない叔父と鉢合わせした。

「げ」
「おや、ヒノエ。……げ、とはご挨拶ですね」

穏やかな榛色の瞳。
さらした金の髪はこの熊野でも鬼子として忌まれるもの。
だからいつもは目深に外套を被る弁慶は、それを脱いでいた。
それが何故か、ヒノエは知っている。
……そしてそれが、気に障る。

「随分と開放的な格好じゃん」
「暑いですからね」

揶揄を込めた言葉さえも今の弁慶には通じないようだ。
そりゃそうだろう。
あの微笑み。
あの言葉があれば、大概の事は平気だろう。

それは、愛を知らないこの男にとって珠玉だっただろうから。

だが、それだからといって譲ってやる気には到底ならない。
自分にとっても彼女は珠玉。
掌中の珠。

「……それであんた、何してんの」
「君こそ」
「オレは、姫君を誘いに来たんだよ」
「おや、僕と一緒の用事ですね」
「用事じゃねえし!」

笑顔が消えたのはヒノエの方が先だった。

口では誰にも負けないつもりのヒノエだが、この男には勝ったことがない。
同類だし、その上で自分以上に口は回るし、悪知恵の宝庫だし、弱味は色々握られてるし。
けれどもこの戦だけは譲れない。
だから真剣勝負である。

「オレは、『でーと』誘いに来たんだよ!用事ならちょっとは遠慮しろ!!」

だいたい他の八葉は馬鹿なのか、とヒノエは思う。
大事な白龍の神子様をどうにも使い潰しているような印象があるのだ。
戦だなんだとひっぱりまわして。
ちょっと許し難い。
かなり許し難い。

「『でーと』?」

弁慶が首を傾げた。聞いたことのない言葉。
ヒノエはフフンと鼻を鳴らした。
ヒノエにだって、望美から貰った言葉はある。
顔を赤らめて応えてくれた、あのときの仕草とか。

「向こうの言葉で逢い引きみたいな意味だよ。オレと姫君はそういう仲だってことさ」
「はあ…」
「分かったら下がりな。あいつを勝手にこき使わないでくれる?」

勝ち誇ったようなヒノエの言葉に、弁慶は更に首を傾げた。
そして振り返る。

「まるで恋人のような言い様ですね……そうなんですか?」
「へ?………あっ…」

ヒノエは不覚にも気づいていなかった。
そこに、顔を真っ赤にした望美がいることなんて―――

望美はぷるぷると震えていた。
ヒノエにももう分かっている。
恥じらいながらも、これは怒っている証拠だ。
ごめんと謝る前に、望美が爆発した。

「ヒノ…ヒノエくんの、馬鹿っ!誤解されたらどうしてくれるのー!!」

誤解。
ごん、とヒノエは頭を打たれた。
弁慶の爆笑が響く。

……口は災いのもと、かもしれない。











望美の言葉は簡単に人を救うけど、簡単に落ち込ませもする。
誤解って。
そりゃ誤解だけど。

(でも、あんな顔されたらそうなんだって思うだろ?)

可憐な姫君は結局弁慶に浚われてった。
くそ。何が薬草摘みだ。一人で行け。
勝ち誇ったような弁慶の顔が脳裏によぎり、ヒノエは渋い顔をする。
自分も誘われはしたが、まさか一緒に行けるはずもない。

誤解。
ちょっとダメージがでかい。

「はー」

ヒノエは大きくため息をついた。
腹黒法師にのせられたとはいえ、望美の部屋の前であんなこと言うんじゃなかった。

「………何ため息ついてるの?」
「悔いてるんだよ。望美は恥ずかしがり屋なのに」
「そうだよ。ひどいよ、あんなこと大声で」

ヒノエはぴたっと口を閉じた。
それは自然に割り込んできた声で、さっきも今も、ヒノエは気づかなかった。

望美!

ヒノエはできるだけ何でもない顔で微笑みながら振り向いた。

「やあ、帰ってきてたのかい、姫君」
「……そうだよ」

望美はちょっとむうっとした。
さっきは「望美」って呼んでくれてたのに、「姫君」に戻っている。

(姫君なんかじゃないのに)

「いいのは摘めたかい?」
「うん!ずっとここにいたの?時間があったなら、ヒノエくんも一緒に来ればよかったのに」
「……お前と二人ならそれもいいけどね」

ヒノエは渇いた微笑を浮かべる。
望美は困ったように苦笑した。

「だから、そういうこと言っちゃ駄目だってば。恥ずかしいよ」
「本音なんだけど」
「うう、口説かれてるみたいとか、思っちゃうよ」

―――だから、口説いてるんだけど。

ヒノエは言いかけて口を閉じた。
頬を赤らめて、いたたまれなさそうにしている望美は可愛い。
……また怒らせたら損かな。
そう算段して、ヒノエは軽い笑顔にすりかえることにした。

「ま、ちょっと疲れてたしね」

これも本当。
だから息抜きに望美を誘おうとしたのだし。

すると、望美は何故かぱあっと笑った。

「そうかもって思ったんだ!だから、はい、これっ」
「………茶?」

ずいっとさしだされたのは、お茶に見えなくもない。
ただし匂いがきつい。
更には緑色の液体なのに、何かすごく危険な雰囲気がする。
どろっと濁っていて、何かが出てきそうだ。

「何、これ……?」

願わくば飲みたくない。
そんな思いでヒノエは尋ねたのだが、望美の笑顔は満開だった。

「疲れてるかも、って思ったから、弁慶さんから教わって、私が作ったの!滋養強壮だよ!」
「……へえ」

望美が弁慶から教わった。
……それは恐ろしくまずい茶に仕上がっているだろう。
ヒノエは逃げ腰になったが、望美の笑顔によって立ち去るまではできそうにない。
望美手ずからというそれを、他に譲れるわけがない。
ヒノエは覚悟を決めた。

「……いただくよ」
「どうぞ!」

差し出す笑顔は文句のつけようがない。
そして笑顔は甘く――――茶は。

―――――ヒノエは耐えた。
プライドとか根性とか生きる気力とか。
とにかくいろんなものを総動員して耐えに耐え、何とかそれを呑みきった。

(まず……っ……)

それは予想の通り、まずかった。
というかまずいなんて代物じゃない。
何てものを教えるんだ、弁慶!

「……ごちそうさま……」

胃の腑が微妙な音を立てる。
かろうじてヒノエはそう言って、茶碗を返した。
望美がそれを受け取り、微笑んでくれる。

「おそまつさまでした。ちょっとは元気になった?」
「……ああ。オレはお前の笑顔だけで充分だったんだけどね」
「またそんなこと言う。……じゃあ、今度は一緒に行ってね?」
「ふふ、寂しかったのかい?」

まだ身体が微妙で、でも望美が何だかねだるように言うものだから、からかいまじりにヒノエは笑った。
ちょっと怒られて、それで終わり、そう思って。

なのに、望美は恥ずかしそうに下を向いてしまった。
恥じらうように、あるいは、視線から逃げるように。
そして小さく呟いた。

「……もう、何でばれるんだろう……ヒノエくんのばか」

ヒノエは思わず目を見張る。
きっと望美は聞こえてないと思っているのに違いない。
それくらい小さな声。

(……これは、もう誤解なんて言わせないぜ……?)

……まったく。
何て姫君だろう。
こんなに自分を振りまわし、思うようにさせる存在はそうはいない。

ヒノエは苦笑し、飲みほした茶碗を眺めた。
せめて「望美がヒノエのため」に作る茶を教える過程で、あの男が苦悶していればいい。
そう思った。
―――そして次は、二人きりの時に誘う事を誓う。

(それならお前は、オレの手を取ってくれるだろう?)

ヒノエは望美と微笑みあい、少しばかり癒されるのだった。
……胃の腑を除いて。








同じ頃。
弁慶はヒノエの願った通りに苦悶していた。
ただし別方向で。

「………おかしいですねえ」

目の前には薬茶がある。
望美に教えた、しかし綺麗に澄みきった色の。

手順も何もかも変えていないが、あのときは何故あんなドドメ茶になったのだろう……?

(ヒノエは僕が嘘でも教えたと思うんでしょうねえ……)

何となく、弁慶は譲が厨所に望美を入れない理由を察した。
そして、ヒノエを思い、遠い目でため息をつくのだった。