「冗談じゃねえ。俺は還るぜ」
景時の弱気とも取れる台詞にヒノエが返したのは、痛烈な一言だった。
まさに一刀両断、取り付く島もない。
望美は思わず一歩さがった。
そして。
「望美・・・・・・っ?!」
ヒノエが気づいたときには、部屋を飛び出していた。
明日は明日の・・・・・・・
望美は自室のベッドでうつ伏せていた。
身体が重くて、何も考えられない。
これじゃいけないと、わかっているのに。
『冗談じゃねえ』――――
ヒノエの声がフラッシュバックして、望美はきゅっと固く目を瞑る。
わかっていたはずなのに、分かっていなかった。
いや、これも忘れていたのだろうか。
(ヒノエ君は熊野が大事。熊野が一番)
当たり前のことだった。
いくら、一番現代に馴染んでいるように見えたって、ヒノエの心のありようが簡単に変わるわけもない。
大事なものは、熊野。
いくら優しくしてくれても、好きだと囁かれても・・・・・・
そこまで考えて、望美は携帯の着信音に気づいた。
出なくてもわかる。
特別に設定した着信音・・・・・・・ヒノエ君だ。
「・・・・・・・・・・・」
望美は暫くそのままでいたが、やがて鳴り続ける電話の横を通り過ぎて、テラス窓を開けた。
「・・・・・っ、望美・・・・・・」
そこには案の定、携帯を耳に押し当てたまま月を見つめたヒノエが立っていた。
驚いたように身体を起こして、ヒノエは通話終了のボタンを押したようだった。
部屋の中で鳴っていたメロディが途切れる。
「・・・・・・・よかった。天岩戸は開かないかと思っていたよ」
ほっとしたようにヒノエが笑った。
その顔は優しくて、望美は思わず顔を背けた。
優しいヒノエに、ひどい言葉をぶつけてしまいそうになる。
(熊野を優先するのは、当たり前なのに)
――――そうかしら?
不意に、胸の空洞から声がした。
――――あんなに思わせぶりにしておいて、ひどいと思うほうが当たり前よ
確かにそれは自分の声。
望美がハッと我に返ったのは、ヒノエが猫だましのように手を目の前で叩いたからだった。
「わっ」
「大丈夫かい?目が、遠かったよ、姫君」
「う、うん、ごめん、ぼうっとして・・・・・・」
謝りながら、望美は俯いた。
情けない。あんなこと思うなんて。
彼が熊野を大事にしているのはとても、素敵なことなのに。
素敵だと、本当に思っているつもりだったのに。
(あれが私の本音なのかな・・・・・?)
憂える望美を前に、ヒノエもうまく言葉はつなげない。
還ると断言したのは本当。
何があっても還る気でいるのは変わらない。
でも、まさか、ここまで望美が動揺するとは思わなかった。
(いつものオレなら、つけ込むところだよな・・・・・・)
それが一切できない自分に苦笑する。
つけ込むよりも、目の前の望美の憂いを何とかしてやりたい。
でも、還らなくていいなんて嘘を、ヒノエはついてやることができない。
だから、ヒノエは手を伸ばした。
「ヒ―――ヒノエく」
「黙って。このままでいて・・・・・・」
抱き締めることしか、できない。
ここにいると、言うことはできない。
そして――――ここから連れ出してしまうことも、今は決めかねた。
ここで幸せに暮らす望美を見なかったら、きっとそうできたけど。
ヒノエの懇願めいた囁きのまま、望美はそっと体の力を抜いた。
ヒノエの鼓動が、聞こえる。
暖かい。
少しずつ心が落ち着いていくのがわかる・・・・。
やがて望美は、とん、と、ヒノエの胸を合図のように叩いた。
「ヒノエくん・・・・・・ごめん、飛び出しちゃって。心配かけたよね・・・・」
「望美・・・・・」
「わかってる。大丈夫だから」
ヒノエから身体を起こし、望美は笑顔を見せる。
気丈に微笑む望美が愛しかった。
だからこそ、望美から故郷を奪えない。
一緒に来いと言えなくなっている。
「望美、オレは―――」
「ストップ」
何か言おうとしたヒノエを制して、望美は哀しげに微笑んだ。
何故かそれが、決別の言葉だと気づいていたから。
「明日は明日の風が吹く、よ。ヒノエくん、そうでしょう?」
無理しているとわかる、少し震える口調で、それでも望美は軽やかにヒノエに微笑んでみせた。
ヒノエが緩く瞠目する。
「どう転ぶのか、誰にも分からない。諦めるなんてらしくないよ、ヒノエくん」
「望美――――」
なんて強さだろう。
儚さも確かに持つのに、望美は必ず立ち上がる。
進んでいこうとする。
ヒノエは苦笑した。
そうだ、コイツは守られるだけの姫君じゃない―――
「ああ、その通りだ」
「うん、頑張っていこう。ちゃんと、還してあげる―――から」
さすがにそこだけは、語尾が震えた。
泣き出しそうな望美に耐えかねて、ヒノエが唇を奪う。
「んんっ・・・・・・」
強く一瞬だけ吸われて、それは呆気なく離れた。
望美は少し頬を紅潮させる。
ヒノエは満足げに笑う。
いつもの顔で。
(そうだ。還るまでにはまだ間がある。その間に決めることはできる)
望美を連れて還るか―――諦めるか。
後者は選択できる自信がなかったが。
愛しさは日々深まり、こぼれだす想いの丈はヒノエ自身にもはかれない。
自分と同じ目線に立てる。
守るだけじゃなくて、共に戦える。
他にこんな女はいない。
「・・・・・・慰めに来て、慰められちまったな」
「そ、そんなことないよ。ヒノエくんが来てくれなかったら、私―――」
自嘲気味の声に、望美は慌てた。
そう、ヒノエが来なかったら、こうして心を暖めてくれなかったら、凍り付いてしまった気がする。
動けないままだった。きっと。
「だといいけど」
「ほ、本当だよ!」
ふふっとヒノエは笑った。
少し身を引いたヒノエに、望美はヒノエが帰ろうとしている事に気づく。
・・・・・・・まだ、一緒にいたかった。
「ヒノエくん、その、入る?」
身体をずらして室内に誘ってみる。
ヒノエは一瞬驚き、次に悪戯っぽく微笑んだ。
「今日はやめとく。ブレーキが効かなさそうだからね」
「えっ・・・・・・」
望美が目を丸くしたのに、ヒノエはちょんと望美の胸をつついた。
「こういう事」
「やっ、ヒ・・・・・ヒノエくんっ!」
我に返った望美が羞恥と怒り半分に拳を振り上げたときには、ヒノエはもう有川家の木に飛び移っていた。
素早い。
「はは、お誘いは嬉しかったよ、姫君」
「そ、そういう誘いじゃないっ!」
望美は真っ赤になって言い返すが、ヒノエは取り合わない。
やがて、ふと、表情を改める。
「・・・・・・今日はありがとう、望美」
「え?」
「おやすみ、姫君!」
キスを投げると、そのままの勢いでヒノエは夜の闇に消えた。
取り残された望美は羞恥に頬を染め、帰って来た時とは全然違う気持ちでベッドに倒れこんだ。
『明日には明日の―――』
自分で言った言葉だが、今の状況にこれほどふさわしい言葉もないだろう。
何も分かっていない。少なくとも自分は。
ならば、進まなければ。
望美は静かに決意して、目を閉じた。
結晶は、あと二つ――――