「これで本宮に行けるな!」
「はい!」

怨霊が封印された時、九郎が明るく言って、望美も元気にそれに応えた。
ヒノエは胸に浮かんだ怒りを押し殺した。
・・・・・それは、とても理不尽なものだ。

彼女が還る為に必要なこと。
わかっている、のに。

加速していく恋に、ヒノエは自分を持て余す。
その場にとてもいられなくて、ヒノエは静かにその場を離れた。




禁断の果実




「望美、・・・・しまった、風呂あがりか」
「ヒノエくん?」

望美は渡殿でかけられた声に振り返った。
怨霊も駆逐し、熊野川は今日の昼、清流に戻った。
明日には本宮に行くという夜である。
早めに就寝の態勢にはいっていた望美はきょとんとした。

・・・・・しまった?
普段なら、湯上りの望美をからかうようなものなのに、「しまった」?
どうしたというのだろう。
望美は手ぬぐいで髪を拭きながら、ヒノエに向き直った。

「何がしまったなの?」

ヒノエがそっと苦笑する。

「いや、夜の舟遊びにご招待しようと思ったんだ。この先、そんな余裕はなさそうだからね」

ちょっと遅かったね、と、ヒノエは肩を竦めた。
望美が風呂に入ったらすぐに寝てしまうのはリサーチ済みである。
しかし、舟遊び、と聞いて望美の顔がパアッと輝いた。

「いないと思ったら・・・・手配してくれたの?行きたい!」
「・・・・・・でも、その濡れ髪じゃ風邪をひくよ」
「大丈夫、夏だもん!ねえ駄目?連れてって?」

普段我侭を言わない望美にこう来られてはヒノエは敵わない。
もともと、望美と二人でゆっくり過ごしたかったのはヒノエなのである。
いなかったことを望美が気にかけてくれていたことも、拍車をかけた。
仕方なさを装って、ヒノエが軽く頷く。

「お前にはかなわないね。あったかくしてから来なよ?」
「うん!待ってて!」

言ったのは自分なのに、身軽く走っていってしまった望美を思わずヒノエの手が追いかけた。
無意識の行動に気づいて、ヒノエは慌てて手を元に戻す。

(何をやってるんだ、オレは・・・・・・)

恋は溺れさせるもの。
あるいは、味わうもの。
そのはずが、望美に関しては調子が狂う。
いつか望美が帰る、そのときまでの遊びだと最初は分かっていたはずなのに。
「そのとき」、帰す自信が、日に日になくなっていくのをヒノエは感じていた。
それでもこのときはまだ、――――ヒノエに望美から故郷を奪う気は、なかったのだ。









「わあ」
「どうぞ、姫君」

焦燥は内に隠してなめらかに差し出されたヒノエの手に望美はつかまる。
思ったより硬い掌に「男」を感じ、望美は少しドキッとした。
紛らわすために、望美は早々にヒノエの傍を離れる。

「早く、早く漕いで!」
「はいはい、お姫様」

無邪気なおねだりに苦笑しつつ、ヒノエは小舟を漕ぎ出した。
すぐに満天の星空の下、小舟は浜を離れてしまう。
漆黒の闇を月光が照らす。
暫く行ったところで、ヒノエは舟を止めた。

「ヒノエくん?」
「ふふ、見てみな」

ヒノエの指差したところは、舟の先の篝火の辺り。
なんだろう、と望美が船の舳先に身を乗り出すと、灯りに惹かれたように小魚が集まって泳いでいるのがよく見えた。
望美は夢中で見入る。

「わあ、可愛い!」
「だろ?お前はこういうの、好きだろうと思ってさ」

声が思ったより近く聞こえて、望美は思わず身を竦ませた。
見上げると、ヒノエは望美を追い越して身を乗り出して海面を見ていた。
篝火に照らされた端整な顔に一瞬見惚れ、望美は慌てて顔をそらす。

「・・・・・どうしたの?」

言わば思い出作りのために、漕ぎ出した舟。
さっきといい、避けるような態度にちょっとした苛立ちを覚えて、ヒノエが望美を覗き込んだ。
逸らすことも出来ない間近に迫った紅蓮の瞳が、望美を釘付けにする。

「ち、近いよ。ヒノエくん・・・・」
「お前がオレを避けるからだろ。何かした?オレ」

何もしてない。
それどころか、こうして夜船に連れ出してくれて・・・・。
ヒノエの不満顔に、望美はさすがに恐縮した。

「ご、ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃないよ?」

ヒノエは、何故、が、知りたいのだ。
小さい咎めに、望美はいたたまれずに顔をそらした。

「わかってる・・・・」
「――――わかってないだろ」

本当にわかっていたら、顔はそらさないだろう。
苛立ち半分―――眠らせていた焦燥半分で、ヒノエは乱暴に望美の顔を固定する。
すぐにも唇を奪えそうな位置まで引き寄せた。

「ヒ――――ヒノエくんっ!?」
「動かないで。・・・・・これ以上、オレを煽らないで」
「あ、おる・・・・・?」

羞恥と困惑で望美の顔が赤い。
可愛い。
それだけの女なら、他にもたくさんいるのに。
どうして望美だけ?
ヒノエにもわからない、きっと永遠の謎。
それでも、それは確かに存在する真実。

「な・・・・何言ってるのか、分からないよ!ヒノエくん、離して、もう帰してっ・・・・・」

このとき。
望美は当然、宿に帰してもらいたくてそう言った。
ヒノエにもそれは充分に分かっている。
わかっていながら、引き下がる気にはなれなかった。


帰る―――そう言う望美に、オレは、頷ける?


短い自問自答。
答えは「否」だった。
帰せない―――

「帰る、なんて、言わないで」
「ヒノ・・・・・っ、んんっ」

珍しいほど弱気な声音に、望美は一瞬瞠目し、抵抗の力が緩んだ。
その隙を、ヒノエは見逃してやれなかった。






「・・・・・は、んんんっ、・・・・ふっ・・・・・・・」

望美に圧し掛かるようにして、ヒノエは望美の唇を思うさま貪った。
一度口づけてしまえば焦燥はおさまるかと思ったのに、むしろそれは増すばかりだ。
喉の渇きのように、餓えのように、本能的な情動が加速する。

「はっ・・・・・ああ、んっ・・・・・」
「気持ちいい・・・・望美?」

甘く囁きかけると、目を真っ赤にした望美が小さく首を振った。
その仕草は、まるで子どもが懸命にイヤイヤと嫌がるようであり・・・・・
男を酔わす媚態のようでもあった。

(どちらであっても、かまわないけど)

ヒノエは望美の頬を両手で囲い込み、上を向かせた。
苦しそうに望美が息を継ぐ。
潤んだ瞳が、愛おしかった。

「・・・・・・苦しいくらい、好きだよ、望美・・・・・」

再び唇を押し付ける。
初めて口づけた望美の唇は、今までの恋が一気に色褪せるほど甘かった。
いや、今までの恋なんて、恋とは呼べないほどに、違う。
これほどの思いを、ヒノエはどんな姫君にも抱いたことはなかった。

離せない。
愛おしい。
心が、張り裂けてしまいそうだ。

「望美・・・・・望美っ・・・・・」

名を呼ぶ隙間に口の中を蹂躙されて、望美の息は整わない。
思考は既に痺れていて、押し流されていた。
抱き締められている腕の強さと唇の熱に、くらくらと酔わされる。

「ヒノ、エ、く・・・・・っ」

望美が本格的に呼吸困難に陥り、必死に胸板を叩く。
それでもヒノエは唇を離さなかったが、やがて望美の力が緩むと、観念したように離れていった。
二人の間に夜気が流れる。
望美は久しぶりに感じた風に、ぶるり、と身震いした。
呼吸を整えながら、潤んだ眼差しを彷徨わせる望美は頼りなげで、可憐だった。
惹かれたのは望美の強さだったのに、この望美こそ、独占したいとヒノエは思う。
離れた今も、欲しくて我慢が利かない。
――――これが最後の機会になるかもしれない。


ヒノエは、迷わなかった。


(お前を手に入れることは、故郷を奪うこと)
(その罪ごとオレは――――お前を)


ヒノエが腕を引き、再び望美の唇を奪う。
そしてそのまま、望美の袷を割った。
息を呑む望美に、ヒノエは危うい微笑を向ける。

「逃がさないよ、姫君―――」



かじった罪の味は、たまらないほど、甘い。