ここのところの望美の休日は、いつも弁慶の部屋で始まる。


 今年の春に卒業と永久就職を控えた望美は、週末だけ、弁慶の家で過ごすことが認められている。

「おはよう、望美さん」
「おはようございます、弁慶さん」

 朝起きると、いつも優しいヘイゼルの瞳が見つめてくれていて、その甘さが望美は好きだ。
 恥ずかしくてまだ慣れないけれど、とても幸福な時。
 柔らかな手触りの髪を、弁慶はもう隠すことがない。
 手を汚すことも、厳しい目をすることも。
 ただただ幸せな日々。
 不満といえば……




「すぐにご飯を作りますねっ」
「ふふ、もう作っていますよ」

 すぐに望美の笑顔は崩れた。

「えーっ!」
「あとは温めるだけです」

 と、すると、弁慶はもっと前に起きて、ご飯を作ってから戻ってきていたことになる。
 望美は盛大にふくれた。

「一緒に作りたかったのに!」
「僕もそう思ったんですが……」

 弁慶はにっこりと完璧な笑顔で、困ったように小首を傾げた。

「よく眠っていたので……、起こしたくなかったんです」

 途端に望美は自分の今の恰好を意識する。
 そして昨夜のこと……。
 しかし。

「誤魔化されませんよっ」

 真っ赤な顔になって、それでも望美は食い下がった。

「……」
「弁慶さん?今、舌打ちしましたよね?」
「気のせいですよ」
「何がですかっ!」

 かわされる会話は毎度のことで、それは勝者確定済みの、果てしなく不毛な言い争いである。

「弁慶さんっ…!…っん……!」
「舌打ちなんて気のせいですよ。……ね?」

 キス一撃。
 それであっさり入れ替わる、攻守逆転☆

「―――弁慶さんはずるいっ!」

 さあ今日の勝者は誰でしょう?





「うみゅう、美味しそう…!」
「ふふ、どうぞ食べて下さいね」

 望美が機嫌を直したのは、テーブルについてからである。
 食卓に所狭しと並べられた彩り豊かな皿の数々。
 サラダ、ポタージュだけでなく、いくつかのバニーニもあって、どれから食べようか、望美は真剣に迷う。

「あ、これ、昨日のカレーですね?こういう風にも出来るんだ!」
「ええ、微妙な量が余りましたからね」
「あ、あれは、弁慶さんが…!」
「僕が?僕が悪いんですか?」

 望美は赤くなったまま、無言でトマトのバニーニを口に運んだ。
 この人に口で勝てるわけもない。

「…美味しい……!」

 誤魔化しに食べたはずの、何の変哲もないサンドは、感激するくらい美味しかった。
 望美は一気に目を煌めかせる。

「美味しいです、弁慶さん!」
「ふふ、よかった。君は譲君の美味しい料理に慣れてますからね。これでも気を遣うんですよ」

 どんなものでも美味しく食べてくれるだろうけど、一番美味しいと思ってくれなくては意味は半減すると、弁慶は思っている。
 ここのところの、弁慶の一番の研究対象。ちなみに調べるほどに不思議なことがある。

(…舌は、いいんですよね…)

 それでどうしてあんなに壊滅料理を作るのか?
 弁慶にも解けないだろう永遠の謎である。

「いやーん、どれも美味しい!……一緒に作れたらもっと美味しかっただろうなあ……」

 望美の呟きに、弁慶は笑顔のまま固まった。
 それはどうだろう。

「……望美さん、ポタージュもどうぞ」
「あ、飲みましたよ!じゃがいもですよね?」

 ―――本当に舌は正確なのだ。
 おかしい。

「そう、スープに向くってあったので取り寄せてたんです」
「へえ……初めての味です!」

 望美の興味がスープに移る。
 これ幸いと、弁慶は蘊蓄するが、望美は楽しそうに聞き入っている。

(素直なんですけどねえ……)

 素直さと舌の確かさがあれば料理は上達すると言ったのは、何処の料理研究家だったろう?
 望美はふと、紅茶のカップに見慣れぬ色を発見した。
 カップの内側の模様が、紫の色に揺れている。
 ……何茶?

「弁慶さん、これは?」
「ああ、これは薄紅葵、というんです。君みたいなお茶なんですよ」
「私みたい?」
「ええ」

 そう言うと、弁慶は添えてあったレモンを一滴、お茶の中に落とした。
 すると魔法ががかったように、お茶はピンク色に変化する。

「わ…!すごい!綺麗…!」

 弁慶はにっこりする。
 ちょっとの刺激ですぐ色を変える、君みたいなお茶と思ってから、ひそかにお気に入りのお茶である。
 望美ははしゃいでいたが、ふと、顔をあげた。

「どこが私みたいなんですか?」
「……」

 余計な事を言ったかもしれない。
 望美の怒りそうな単語しか思い浮かばない。
 望美は答えない弁慶に、そっと吐息をついた。
 どうせ、すぐ顔色を変えるとか単純だとか思ったのだ。
 ちょっとむかついたから、ぷいっと横を向いてやる。

「の、望美さん?」
「弁慶さんが教えてくれるまで、このままです」

 しっかりご飯を食べる手を止めないままで、望美は横を向いてしまう。
 簡単に手のひらで踊ったりしないんだから!
 固い決意の漲る雰囲気に、弁慶は困ったように笑った。

「……負けました」

 返ってきた花の笑顔に、勝てるものは存在しない。   Fin.