あの雪の日を忘れない。
あなたの血で、雪が、真っ赤に染まっていた。


あと少し遅かったら――――――


目が覚めた望美はぎゅっと手を握り締める。
けれど弁慶の前では、最大級の笑顔を浮かべた。




愛に変わってゆく過程




「望美さん」
「弁慶さん、こんにちは!」

今日は外でデート。
いつもは弁慶の部屋で室内デートだが、聞けば弁慶は、3日は外に出ていないという。

「どうやって生活しているんですかッ!」
「最近は便利ですよね。全部ネットで済ませられますから」

最近って。

ここ最近現代に来たはずの人は、現代ツールを完璧に使いこなしている。
おそらくは望美以上に。

「でも、やっぱり不健康ですよ」
「そうですね……」

望美の愚痴に、弁慶は陽射しを手でひさしを作って眺めながら忍び笑う。
黒髪と栗色の―――向こうの友人にもよく言われた言葉だ。

(逃げて、無事だろうか、二人とも――――)

つい考えてしまう。

泰衡は、大丈夫だろう。
問題は九郎。

出来る限りのことをしたつもりではあるが………


「……さん、弁慶さんッ!」

望美の―――どこか泣きそうな顔に、弁慶は現実へと帰る。

そうだ、ここは現代。
あの場所とは時空からして違うところ。
……考えたって、弁慶が何ができるわけでもない場所。
望美のように逆鱗があるのなら話は別だが。

「……すいません、大丈夫ですよ」
「……はい」

綺麗に浮かべられた笑顔に、望美は頷くしかない。
弁慶が「あの先」を気にするのは当たり前なのだ。
自分でさえ、そうなのだから。
だが、望美に弁慶を手助けすることはできない。
何度跳んでも、あの場所へしか望美は辿りつけなかったから。
あれはきっと、決まっていた道筋だったのだ。

「さあ、どこへ行きましょうか」
「ふふ、どこでもいいですけど」


――――あと少し、遅かったら……


いつもと同じ、小さな恐怖が這い登る。
いつもと同じように望美はそれに笑顔で蓋をして、無邪気に微笑んだ。









出かけた先は遊園地。
人出も多く、楽しい時間が過ぎる。
だから―――油断した。
弁慶とはぐれてしまったのだ。
「うーん、困ったなあ」

呑気に小首を傾げながら、望美の中に不安は忍びよる。

……大丈夫。
ここは現代で、向こうの時空ではないから。
命の危険なんかはない、から。

ちょっとはぐれただけだ、と自分に言い聞かせなければならないのは、今朝見た夢のせいだろうか。

そのとき。
耳慣れたサイレンが望美の耳を衝いた。

「……ッ」

違う。
弁慶ではきっとない。
だってここには、こんなにも人がいて――――

そう思うのに、望美は走り出してしまっていた。


ちょっとした人だかり。
そこに目当ての人を見つけてしまい、望美は思わず蒼白に駆け寄った。

「弁慶さんっ!!」
「望美さん、よかった。探してたんですよ」

弁慶は倒れたらしいおばあさんを介抱していた。
いつも通りの笑顔にホッとする。
と、同時に、怒りが湧いた。

(探してたのは、私だよ!)

理不尽すぎる。
きっと具合の悪い人を見つけて放っておけなくなって。
そういう優しいところが大好きなのに、今はそれが何だか腹立たしい。
いつも通りなのが気に障る。

「一人にしてすいません。行きましょう」
「……でも。大丈夫なの?」
「ええ。……君の方が心配です」

望美は優しく伸ばされた手を、衝動のままに振り払った。
すぐに後悔が湧く。
でも、素直になれない。

「心配って何?私は平気です」

(私、可愛くない!)

泣きそうになる。
ああよかったでいいのに。
まだ心のどこかが凍りついている。
あの雪の、赤い色が心にちらついてしまう。
だけど、弁慶は悪くないのに……!

望美が葛藤している横で、弁慶がいきなりくすくすと笑いだした。
望美はちょっとムッとする。

「……何ですか」
「いえ、幸せだなあと思いまして」
「幸せぇ?」

思いっきり眉根を寄せた望美の眉間を、弁慶がつついた。

「はい。望美さんが我儘だから」

――――ワガママ。

確かにそうなのだが、きっぱり言われるとそれも傷つく。
それにどうしてそれで幸せなのか。

笑われてしまって、望美は怒ればいいのか、謝ればいいのか、よく分からない。
少しいじけたような風情に、弁慶は柔らかく微笑んだ。

それはもう見慣れた微笑。
けれど、京では見ることのできなかったもの。

「君は向こうでは……聞きわけがよすぎるくらいでしたからね。ああ、君が我儘になれたんだ、と、ホッとしてしまうんです」
「弁慶さん……」
「もっとも、君も僕も向こうでの事はなかなか頭から離れそうにないですが」

弁慶が今度は苦笑する。

「……さっきはひどい顔色でしたよ。僕のことを心配してくれたんでしょう」
「……はい」

望美が小さく頷いた。
弁慶が頭を撫でてくれる。
心が締めつけられるようだった。
あのときは何とか間に合ったけど、今度は分からない。
あのときだって、本当はもっと早く――――

「嬉しかったですよ、あのときも……そして今も」
「……あのときと今は違います」
「そうですね」

(確かに違う。今は……君への想いで僕は満たされている)

囁くような声に、望美は心が穏やかになっていくのを感じる。
以前から弁慶の声を聞くのは好きだけど、甘い言葉より、穏やかな声の方が最近は好きだ。
本音を話してくれているような気がするから。

「行きましょうか」
「……うん!」

弁慶は望美を促して歩き出しはじめた。
このままここにいると、安心しきった顔の望美を抱きしめたくなってしまう。
望美の我儘は嬉しいが、望美の笑顔はいつでも弁慶に恋させてしまうのだ。
やわらかく育っていく想いと裏腹に。
それはちょっと、暴れ馬。


現代はにぎやかに、そして暖かくその歩みを進めていく。
穏やかに想いは変わる。
恋から、愛へ。

……だけど、と、弁慶は心の中微笑んだ。


君へ毎日恋し続ける自分は、きっと変えられるはずもない。
だから愛は、無尽蔵に湧きつづけるだろう。