荼吉尼天を追って、和議の途中、現代に跳んだ私たち。
何とか倒せたはずだけど、帰る方法は分からないし…
そうする内に、怪異がいくつも起こるようになった。
現代の鎌倉で。
「―――望美さん?」
「…あっ、ごめんなさい、ぼうっとしていて」
「いいえ、こちらこそ、お待たせして申し訳ありませんでした」
後ろからかかった声に、望美は思考を一気に引き戻される。
弁慶の柔らかな笑顔は、こんなことに巻き込まれても健在だ。
「そんな。…でも、駅で待ち合わせなんてしなくても、そのまま一緒に来てもよかったのに」
その方が道中も話せて楽しいのに。望美としてはそんな気持ちで言ったのだが。
「ふふ、でもそれだとデートって気分にならないでしょう?」
さらっと言われて、望美は真っ赤になってしまう。
健在なのは笑顔に限らない。
ヒノエといい、現代へ馴染むのが早すぎはしないだろうか。
「せっかく君から二人きりのお誘いですからね」
「も…もう、そんなことばっかり言って!」
深い意味があるのか、とつい勘ぐってしまいそうになる。
普段から女性に対して優しいこの人を知らなければ、うっかり誤解するかもしれない。
望美はきゅっと心を引き締めた。
…弁慶さんは京に帰るんだから。
「さて、何処に行くのですか?」
「着くまでの秘密です」
望美は気分を入れ替えて、にっこりと微笑んだ。
そこは江の島に行ったらいつも寄る、小さな喫茶店である。
花屋の奥、こっそりと隠れるように紅茶の専門店がある。
「雰囲気がいいですね」
「お菓子も美味しいんですよ」
楽しそうに笑ってくれる弁慶にホッとして、望美はメニューを勧めた。
「お勧めはどれですか?」
「うーん、多すぎてどれとは…全部です。駄目?」
小首を傾げた望美に弁慶は相好を崩す。可愛らしい。
「じゃあ、ダージリンとチェリーパイで」
「私はどれにしようかな…」
返されたメニューとにらめっこして、望美が唸るのを、弁慶は眩しげに見つめた。
先日の約束です、なんて、本当に誘ってもらえるとは、弁慶は思っていなかったのだ。
ヒノエは否定されたと聞くのに、デートも否定されてない。
弁慶は、自分でも馬鹿馬鹿しくなる程度に上機嫌だった。
暫くして、紅茶が運ばれてくる。
注がれた色違いの琥珀は心地いい香りが漂っていて、弁慶はその香気ににっこりする。
これはきっと美味しいだろう。
景時の淹れてくれるコーヒーも悪くはないが、弁慶はお茶が好きなのである。
望美はといえば、やってきた「本日のケーキ」に夢中である。
タルト生地にたくさんのフルーツが乗ったもの。
「美味しそう!」
「ふふ、よかったですね」
そして二人、あれやこれやと話題が尽きることもなく、仲良くおしゃべりしたのだが…
「さあ、帰りましょうか」
店を出て、望美が言うのを、弁慶が引き留めた。
「……弁慶さん?」
「さすがにそこまでは虫が良すぎたみたいですね。江の島と聞いて、実は期待していたのですが…」
もうすぐ黄昏時。
弁慶の髪が少しだけ、景色にとける時間。
―――期待?
望美は頭を巡らせる。
いや、考えなくても本当は分かっている。
目の前の優しい微笑み。
でも。
「弁慶さんは…京に帰っちゃう、のに……」
こぼれた声は、思わぬほどに震えた。
弁慶が優しく手を伸ばす。その手につかまってしまっても、いいのだろうか?
「帰りません」
静かな弁慶の言葉に、望美は目を見開いた。
「九郎たちが帰れるよう、手は尽くしますが――僕自身は、帰るつもりはありません。君が、好きなんです」
弁慶が、躊躇う望美の手を引き寄せた。笑顔を消した、弁慶のヘイゼルの瞳が、望美を離さない。
「――龍恋の鐘へ、一緒に行ってくれますか?」
その言葉に、逆らう術を望美は持たない。
夕焼けに染まった海は、やっぱり綺麗だった。
ずっと握ってくれていた手を弁慶が離して、何かを取り出した。
もちろん、南京錠。
「…だから待ち合わせ?」
「ええ、種明かしです」
望美は照れながら、その鍵を手に取る。
江の島へ。そう思って、この場所が思いつかなかったと言えば、嘘になる。
それでも弁慶は異郷の人で、とても慕われているのを知っていたから、望美はずっと、この恋は叶わないのだと思い続けてきた。
それなのに。
「…この鎌倉の海も綺麗ですね」
弁慶が感慨深げに言った。
望美が少し不安そうに見上げるのを、弁慶はからかうように笑う。
「大丈夫ですよ。僕の故郷になるんだと、思っただけですから」
見るからに安心した様子を見せた恋人に、弁慶は微笑む。
(…以前の君はこんなにすぐ不安がったりしなかった…)
抜け落ちた記憶。迷宮の謎を思い、弁慶は知られぬように瞑目する。
この人を護るために―――
南京錠に籠めた願いはふたつ。
その成否は、まだ明らかにはされていない。