怪我をしたと聞いて、血が凍った。
思わず駆けて、部屋まで行って、自分で手当てしているのを見て。

ああ、大丈夫なんだ、まだ。

そう思ったのに。






傷跡も愛しくて





それは、京邸の夕飯時。
一向姿を見せない弁慶に気づいたのは、譲だった。

「あれ、弁慶さんは?」

言われて気づいた望美が、きょろっと見回す。
・・・・・・ホントにいない。

「おかしいですね。いつも、何かあれば言ってくれる人なのに・・・・」

給仕をしつつの譲は、首を傾げた。
そこで望美は、決まり悪そうにしている九郎に気づく。

「――――九郎さん?」
「あ、・・・・・いや」

ちょっと剣のある声で呼びかけられて、九郎が口ごもる。
だが、全員からの注視に耐えられる九郎ではない。

「・・・・・・・口止めされていたんだが」

結局は口を割った。

「怪我をして、それで――――」
「先輩っ・・・・・」

言い終わらないうちに、望美が駆け出した。
譲の止める間もなく、まさに疾風のように。

「・・・・・・・・大したことはないが、少し休むと言っていたんだが・・・・・」

九郎が続けたが、朔がそれにため息をついただけだった。
言うのが遅い。











望美はいくつか間違えながら、見覚えた場所にたどり着いた。
ここをまっすぐ進めば弁慶の室なはず―――だ。
少し立ち止まって息を整える。
気持ちも整える。
―――喪失の恐怖。

(大丈夫、まだ、春の京・・・・・)

本当はそう思うことに根拠はないのだと、心のどこかで気づきながら、望美は心を落ち着ける。
今までたどった道筋を支えにする。
・・・・・・・大丈夫。

寝ているかもしれない。
ううん、気づかれたら、隠されるかも。
チラッと見て、大丈夫そうだったらみんなのところへ帰ろう。
そう思って足音を忍ばせて覗いた弁慶の室。

見えたのは弁慶の背中。
ううん、蜂蜜の滝のように流れる髪。
そして―――。

「・・・・・・九郎?心配しなくても大丈・・・・、・・・・望美さん?」

振り返りかけた弁慶は驚いた。
騙して戦場に立たせようとしている白龍の神子。
望美が、自分の肩に縋りついている。

九郎・・・・しゃべりましたね。

内心ため息をつきながら、弁慶は優しく語り掛ける。

「望美さん、大丈夫ですよ。怪我したのは腹部で・・・・もう手当ては済んでいます」

縋りつかれている右肩の裂傷はもう古傷だ。
だが、そこを気遣われると、どうにも心が波立つ。

(その古傷は、君に気遣われたい物ではないんですよ)

そう吐き捨てそうになる。

「・・・・・望美さん?」

そろそろ離せという代わりに、弁慶がごく柔らかく呼びかける。
望美が傷跡に手をかざしていた。
今怪我した場所ではなく?
弁慶は疑問に思う。

「・・・・・・・?」
「少しでも和らがないですか・・・・・?」

望美が残念そうに声をかけた。
望美は前の時空で敦盛の苦しみを和らげたようにならないか、と思ったのだ。
真新しい包帯を巻かれた腹よりも、その傷が気になった。
そこから、少し瘴気じみたものを感じたからかもしれない。
瘴気なら祓えないか?
少しでも弁慶を癒したい。
そう思うのに・・・・・。
弁慶はくすっと笑う。

「和らぎますよ」
「・・・・・・ウソ。だって弁慶さん、怖い顔してる・・・・」

望美は涙ぐみ、そっと唇を触れさせた。
瞬間、身体を吹き抜けるような清涼感が弁慶を通り過ぎた。

「・・・・・・・・っ」
「・・・・弁慶さん?」

思わず望美を離した弁慶を、頼りなげに望美が見上げる。
弁慶はこれまでにない畏怖を望美に感じていた。

――――この少女は神子なのだ。

知識でなく実感として感じられる、それ。

「もう一度してもいい・・・・・?」

瘴気が確実に薄れたのは望美にも分かる。
望美はそっと問うた。
弁慶はどう答えたものか、迷った。
普通の少女だと思っていた。
普通の少女を戦場に立たせる罪業は諦めていた。

だが。

再び身に走る清涼感―――畏怖。
それにどこか紛れた暖かさはなんだろう。

望美の唇が、ゆっくりと移動する。
数多走る細かな傷も、あのとき、清盛公に受けた傷だけを綺麗に選んで。

戦慄と、憧憬。

永遠にも似た一瞬を破ったのは、九郎の怒号だった。

「なっ・・・・・何をやっている!!」
「きゃっ・・・・・・!」

集中していたのは望美も同じらしい。
九郎の大声に、望美は飛び上がらんばかりに驚いた。

「早く向こうに戻れ!!」
「は、はいぃっ!・・・・・べ、弁慶さん!安静にしていてくださいね!!」

兄弟子の一喝に、ぴしっと背筋を伸ばして望美はまろぶように廊下に逃げた。
立ち去り際に、弁慶へも一言残して。
軽い足音が、向こうのほうへ消える。

「・・・・・・ったく、遅いから見に来てみれば・・・・」
「いいところだったのに」
「何っ!」
「嘘ですよ。・・・・・・ありがとう、九郎。助かりました」
「あ、ああ・・・・・」

弁慶の軽口に赤面しかけた九郎は一転、弁慶の素直な礼に度肝を抜かれる。
助かった?

「・・・・・・・彼女は神子なんですね」

九郎がなぜか押し黙る。
平和な京邸に、ひたひたと近づく戦いの足音。

「・・・・・・弁慶、死ぬなよ」

不意に九郎が言って、弁慶は右の肩口をそっと押さえた。
どうしてだろう。
もう痛まない。

疑問を弁慶は心の奥で捻り潰した。


「――――ええ、まだ死ねません」

望美が世界を渡った秘密の鍵は、弁慶の胸の底に眠らされた。
癒された肩の傷。
それがこの先の運命を、大きく変えることになる。