怪我をしたと聞いて、血が凍った。
思わず駆けて、部屋まで行って、自分で手当てしているのを見て。
ああ、大丈夫なんだ、まだ。
そう思ったのに。
傷跡も愛しくて
それは、京邸の夕飯時。
一向姿を見せない弁慶に気づいたのは、譲だった。
「あれ、弁慶さんは?」
言われて気づいた望美が、きょろっと見回す。
・・・・・・ホントにいない。
「おかしいですね。いつも、何かあれば言ってくれる人なのに・・・・」
給仕をしつつの譲は、首を傾げた。
そこで望美は、決まり悪そうにしている九郎に気づく。
「――――九郎さん?」
「あ、・・・・・いや」
ちょっと剣のある声で呼びかけられて、九郎が口ごもる。
だが、全員からの注視に耐えられる九郎ではない。
「・・・・・・・口止めされていたんだが」
結局は口を割った。
「怪我をして、それで――――」
「先輩っ・・・・・」
言い終わらないうちに、望美が駆け出した。
譲の止める間もなく、まさに疾風のように。
「・・・・・・・・大したことはないが、少し休むと言っていたんだが・・・・・」
九郎が続けたが、朔がそれにため息をついただけだった。
言うのが遅い。
☆
望美はいくつか間違えながら、見覚えた場所にたどり着いた。
ここをまっすぐ進めば弁慶の室なはず―――だ。
少し立ち止まって息を整える。
気持ちも整える。
―――喪失の恐怖。
(大丈夫、まだ、春の京・・・・・)
本当はそう思うことに根拠はないのだと、心のどこかで気づきながら、望美は心を落ち着ける。
今までたどった道筋を支えにする。
・・・・・・・大丈夫。
寝ているかもしれない。
ううん、気づかれたら、隠されるかも。
チラッと見て、大丈夫そうだったらみんなのところへ帰ろう。
そう思って足音を忍ばせて覗いた弁慶の室。
見えたのは弁慶の背中。
ううん、蜂蜜の滝のように流れる髪。
そして―――。
「・・・・・・九郎?心配しなくても大丈・・・・、・・・・望美さん?」
振り返りかけた弁慶は驚いた。
騙して戦場に立たせようとしている白龍の神子。
望美が、自分の肩に縋りついている。
九郎・・・・しゃべりましたね。
内心ため息をつきながら、弁慶は優しく語り掛ける。
「望美さん、大丈夫ですよ。怪我したのは腹部で・・・・もう手当ては済んでいます」
縋りつかれている右肩の裂傷はもう古傷だ。
だが、そこを気遣われると、どうにも心が波立つ。
(その古傷は、君に気遣われたい物ではないんですよ)
そう吐き捨てそうになる。
「・・・・・望美さん?」
そろそろ離せという代わりに、弁慶がごく柔らかく呼びかける。
望美が傷跡に手をかざしていた。
今怪我した場所ではなく?
弁慶は疑問に思う。
「・・・・・・・?」
「少しでも和らがないですか・・・・・?」
望美が残念そうに声をかけた。
望美は前の時空で敦盛の苦しみを和らげたようにならないか、と思ったのだ。
真新しい包帯を巻かれた腹よりも、その傷が気になった。
そこから、少し瘴気じみたものを感じたからかもしれない。
瘴気なら祓えないか?
少しでも弁慶を癒したい。
そう思うのに・・・・・。
弁慶はくすっと笑う。
「和らぎますよ」
「・・・・・・ウソ。だって弁慶さん、怖い顔してる・・・・」
望美は涙ぐみ、そっと唇を触れさせた。
瞬間、身体を吹き抜けるような清涼感が弁慶を通り過ぎた。
「・・・・・・・・っ」
「・・・・弁慶さん?」
思わず望美を離した弁慶を、頼りなげに望美が見上げる。
弁慶はこれまでにない畏怖を望美に感じていた。
――――この少女は神子なのだ。
知識でなく実感として感じられる、それ。
「もう一度してもいい・・・・・?」
瘴気が確実に薄れたのは望美にも分かる。
望美はそっと問うた。
弁慶はどう答えたものか、迷った。
普通の少女だと思っていた。
普通の少女を戦場に立たせる罪業は諦めていた。
だが。
再び身に走る清涼感―――畏怖。
それにどこか紛れた暖かさはなんだろう。
望美の唇が、ゆっくりと移動する。
数多走る細かな傷も、あのとき、清盛公に受けた傷だけを綺麗に選んで。
戦慄と、憧憬。
永遠にも似た一瞬を破ったのは、九郎の怒号だった。
「なっ・・・・・何をやっている!!」
「きゃっ・・・・・・!」
集中していたのは望美も同じらしい。
九郎の大声に、望美は飛び上がらんばかりに驚いた。
「早く向こうに戻れ!!」
「は、はいぃっ!・・・・・べ、弁慶さん!安静にしていてくださいね!!」
兄弟子の一喝に、ぴしっと背筋を伸ばして望美はまろぶように廊下に逃げた。
立ち去り際に、弁慶へも一言残して。
軽い足音が、向こうのほうへ消える。
「・・・・・・ったく、遅いから見に来てみれば・・・・」
「いいところだったのに」
「何っ!」
「嘘ですよ。・・・・・・ありがとう、九郎。助かりました」
「あ、ああ・・・・・」
弁慶の軽口に赤面しかけた九郎は一転、弁慶の素直な礼に度肝を抜かれる。
助かった?
「・・・・・・・彼女は神子なんですね」
九郎がなぜか押し黙る。
平和な京邸に、ひたひたと近づく戦いの足音。
「・・・・・・弁慶、死ぬなよ」
不意に九郎が言って、弁慶は右の肩口をそっと押さえた。
どうしてだろう。
もう痛まない。
疑問を弁慶は心の奥で捻り潰した。
「――――ええ、まだ死ねません」
望美が世界を渡った秘密の鍵は、弁慶の胸の底に眠らされた。
癒された肩の傷。
それがこの先の運命を、大きく変えることになる。