緑色濃い熊野。
恵み豊かな、神威の土地。
誰知らぬ箱庭の時間。
「よう、敦盛」
「ヒノエ……」
長い行軍の合間、休憩中である。
一行は女房姿を模した怨霊を追い、新宮まで来ていた。
ここでもまた、熊野川は氾濫したままだ。
どうも怨霊を川から遠ざけたところで、おさまるような生易しい怪異ではないらしい。
木陰の岩に腰かけて休んでいた敦盛に、軽い声をかけたのはヒノエだった。
幼いときを彷彿とさせる、変わらない角度に、もう動かないはずの胸がじくりと痛んだ。
「どうしたんだ?」
「それはこっちのセリフ。なんだよ、はずれちゃって」
「……ああ、すまない。そういうわけでは、ないのだが」
心配させたか。
敦盛は気にして腰を浮かしたのだが、反対にヒノエが地面に座ってしまう。
「……ヒノエ?」
「んー?」
そのまま岩に凭れかけ、午睡でもしそうな格好で、ヒノエはすっかり落ち着いてしまった。
「呼びにきたのではないのか?」
「いや?」
……ならば、ヒノエは何をしに来たのだろう。
そう思ったが、敦盛は口には出さなかった。
風が一筋流れた。
敦盛もまた座り、静かな空間に風と、蝉の声が響いた。
「……ごめんな」
不意に、ぽつりと呟かれた声にハッとする。
ヒノエは目を瞑ったままだった。
「オレが、あの作戦を言い出した」
「……」
気にすることはない。
言いかけて、また言えなかった。
(君が言い出さなければ、知らない顔をしていられたのに)
心の中で呟いたけれど、これもまた、言えなかった。
蝉が鳴く。
いつかと同じ、熊野の夏。
風が吹く。
立場も何もかも変わっても、変わらない自分たち。
それでもこうして向き合えたのは、きっと彼女のおかげだ。
神子が、結び付けてくれた。
「ヒノエ、一曲聞いてくれないか」
ヒノエがふと顔を上げた。
気づいているのかいないのか、その表情はまるで迷子の子供が不意に声をかけられたときの顔で、敦盛は少し笑った。
どれくらいたっただろう。
ヒノエがまた呟いた。
「なあ、知盛が来てるぜ」
敦盛は思わず笛を止めた。
「知盛殿が?熊野に?」
「ああ。還内府と、一緒に」
思わず強張った敦盛を、静かな目でヒノエが見つめた。
そして吹き出す。
「言わねえよ」
「え?」
「還内府の正体さ。それが、オレに出来る全部だから」
熊野と平家を秤にかければ、ヒノエは、本当なら知盛と還内府を捕えてしまえばいい。
それで大きく平家は削がれる。
ヒノエの三草山での奇策以上に。
だが、ヒノエはそれを選ばない。
それが、ヒノエが敦盛のためにしてやれるすべてだった。
そして、望美のために。
(……平家の奴らと知って、関わってるのかい、姫君?)
それとも将臣の連れだというだけで信用しているのか。
望美の本意は分からない。
ただ、将臣の傍、知盛の横で見せる笑顔は、八葉の誰に向けるものとも違っていて、それがヒノエの胸を妬く。
こんな気持ちは初めてで、ヒノエは自分を持て余している。
常の美辞麗句が最近出てこない。
彼女がたとえば今この戦況で平家を選ぶと言い出したなら、自分はどうするだろう。
どうすればいいんだろう。
「ヒノエ……」
気遣うような視線に、ヒノエはくしゃっと笑み返した。
「……くしゅん!」
「風邪か……?」
突如くしゃみをした望美を、知盛が嘲笑ついでに振り返る。
「だとしたら知盛が悪いのよ?」
「クッ……先に仕掛けたのはお前だろう……」
二人の言い合いを背中で聞いて、どっちもどっちだと将臣は思う。
平家から文が来て将臣が一旦離れたら、波打ち際で水の掛け合いでもしたものか、二人はびしょ濡れになっていた。
夏だからすぐ乾くだろうが、だからやっていいわけでもない。
水着でもないのに。
将臣は慌てて火をおこした。
―――今は、黄昏時。
「誰か噂してるのかも。…早く帰らなきゃね」
黙って出てきたわけではないが、何処に行くとは告げていない。
朔が何も聞かないのに甘えて、望美は何も言わずにいる。
早く帰ると言いながら、望美の足取りはゆっくりで、将臣が気をつけておかなければ置いていきそうになる。
「明日も来るのか?」
「うーん、うん、多分」
将臣の問いに、望美は考え込みつつ答えた。
きっと明日も、行ってしまうだろう。
熊野を荒らす怨霊も退治せずに。
ここを抜ければ、すぐにまた戦。
しかもただの戦ではない。
終焉と始まり。
喪失と裏切りの色濃い、とても哀しい戦が始まる。
それが望美には、嫌で。
「……なんだ?」
望美はじっと知盛を見つめる。
このひとを、このひとのまま救うことは、本当にできないのだろうか?
還内府のまま一緒にいられた、将臣のように。
「……生きて、ね」
「クッ……何が言いたいのやら」
小さいやり取りを、将臣も耳を澄まして聞いていた。
緑陰の熊野でかわした囁きが、すべての運命を変えることになる。
それを知るのは、もう少し後。